101 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/05/30(水) 00:03:56.62 ID:yVreGnKb0
俺んちは家庭内通貨が存在して、
家事手伝いすることで家庭内通貨をもらえたよ。
お菓子レベルの日用品や、生活に必要なものはそこから親経由で購入。
ゲームとかのオモチャ類は、日本円に換金して買うことになっていた。
最後に受けた中間・期末テストの平均点が日本円との交換レートになってて、
高得点とれたらその分だけ得だった
118 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/05/30(水) 00:07:13.35 ID:SkEjWbkH0
»101
お前ん家すげーな
153 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/05/30(水) 00:13:02.11 ID:U0A6FuTP0
»101
ちょっと楽しそうでワロタwwwww
"— もみあげチャ~シュ~ : 中1で小遣い毎月3000円ってどう? - ライブドアブログ (via misoka)
(otsuneから)
陸自隊員がひたすら水中捜索をするところに通りかかった警察官が、傍にいた防衛省職員に声をかけた。
水死したご遺体は、しばらく水面に浮かんだ後すぐに沈み、1週間ほどたつと炭酸ガスがたまって再浮上するが、やがてまた沈む。その後は浮かんでくることがない。すでに、その時期になっていたことから、見かねた警察官が忠告したのだ。
中隊長にそのことを告げると、「分かっているんです。分かってはいるんですが、どうしてもやめられないんです。合理的でないと言われれば反論はできません。でも、どうしても…。私の判断は間違っているんでしょうか?」と言う。
効果の上がらない作業に従事させることが是か非か。長い沈黙の後、
「そのまま作業を続けてください」と答えた。
ある学校を通りかかった小隊が、先生から「どうしても金庫に閉まった成績表を引き上げたいんです」と頼まれた。子供が行方不明のままの親御さんに、せめてもの形見にしてあげたいという。
泥沼の中から金庫を取り出すのは至難の業だったが、小隊全員でなんとか地上へ。そこに視察中の上官が通りかかった。小隊長が慌てて、「すみませんでした。 今後は捜索に集中しますので、今回だけは見逃してください」と懇願したところ、「素晴らしいことだ」と逆に褒められたという。
厳密に言えば「非効率」「ルール違反」なのだろう。しかし、人の大事にする物を自分も大事にする心は理屈を超越する。それを決断し、また、見逃す勇気が彼らにはある。
無理だと誰もが思っても、むなしい時間だと知っていても、人々は毎日、同じ場所に来て行方不明の家族を探す。その側で懸命に活動する自衛官の姿が、どんなに支えになっているだろうか。
「俺、自衛隊に入る」
ポツリと小学生が言った。なぜ? と聞くと、次のようなことだった。
津波にのまれた父親が帰って来るのではないかと毎日、ずっと海を見つめていたところ、若い自衛官に声を掛けられた。理由を話すと、その自衛官は何も言わずに肩に手を置いて、しばらくの間、一緒に海を見てくれたのだという。
震災の悲しみを乗り越えたとき、彼らの姿はもう被災地にはないかもしれない。しかし、強く優しい戦士たちの物語は日本人の心に刻まれるだろう。"
—
【誰かのために】理屈を超越した「勇気」と「決断」強く優しい戦士たち - 政治・社会 - ZAKZAK (via fukuinorisuke)
世界で唯一殺した数より助けた数の方が多い軍隊。
(via keisuh)
2011-04-18
(via mmtki)
(toroneiから)
— Masanobu Sugatsuke × Zenta Nishida|THINK PIECE|honeyee.com Web Magazine
(kotoripiyopiyoから)
師匠は将棋が得意だ。 もちろん将棋の師匠ではない。大学の先輩で、オカルト マニアの変人である。俺もまた、オカルトが好きだった ので、師匠師匠と呼んでつきまとっていた。 大学1回生の秋に、師匠が将棋を指せるのを知って勝負 を挑んだ。俺も多少心得があったから。しかし結果は 惨敗。角落ち(ハンデの一種)でも相手にならなかった。 1週間後、パソコンの将棋ソフトをやり込んでカンを取 り戻した俺は、再挑戦のために師匠の下宿へ乗り込んだ。 結果、多少善戦した感はあるが、やはり角落ちで蹴散ら されてしまった。 感想戦の最中に、師匠がぽつりと言った。 「僕は亡霊と指したことがある」 いつもの怪談よりなんだか楽しそうな気がして、身を乗 り出した。
「手紙将棋を知ってるか」
と問われて頷く。
将棋は普通長くても数時間で決着がつく。1手30秒
とかの早指しなら数十分で終わる。ところが手紙将棋
というのは、盤の前で向かい合わずに、お互い次の手
を手紙で書いてやり取りするという、なんとも気の長
い将棋だ。
風流すぎて若者には理解出来ない世界である。
ところが師匠の祖父はその手紙将棋を、夏至と冬至だ
けというサイクルでしていたそうだ。
夏至に次の手が届き、冬至に返し手を送る。
年に2手しか進まない。将棋は1勝負に100手程度
かかるので、終わるまでに50年はかかる計算になる。
「死んじゃいますよ」
師匠は頷いて、祖父は5年前に死んだと言った。
戦時中のことだ。
前線に出た祖父は娯楽のない生活のなかで、小隊で将棋
を指せるただひとりの戦友と、紙で作ったささやかな将
棋盤と駒で、あきることなく将棋をしていたという。
その戦友が負傷をして、本土に帰されることになった
とき、二人は住所を教えあい、ひと時の友情の証しに
戦争が終われば手紙で将棋をしようと誓い合ったそうだ。
戦友は北海道出身で、住むところは大きく隔たってい
た。
戦争が終わり、復員した祖父は約束どおり冬至に手紙
を出した。『2六歩』とだけ書いて。
夏至に『3四歩』とだけ書いた無骨な手紙が届いたと
き、祖父は泣いたという。
それ以来、年に2手だけという将棋は続き、祖父は夏
至に届いた手への返し手を半年かけて考え、冬至に出
した手にどんな手を返してくるか、半年かけて予想す
るということを、それは楽しそうにしていたそうだ。
5年前にその祖父が死んだとき、将棋は100手に近
づいていたが、まだ勝負はついていなかった。
師匠は、祖父から将棋を学んでいたので、ここでバカ
正直な年寄りたちの、生涯をかけた遊びが途切れるこ
とを残念に思ったという。
手紙が届かなくなったら、どんな思いをするだろう。
祖父の戦友だったという将棋相手に連絡を取ろうかと
も考えた。それでもやはり悲しむに違いない。ならば
いっそ自分が祖父のふりをして次の手を指そうと、考
えたのだそうだ。
宛名は少し前から家の者に書かせるようになっていた
ので、師匠は祖父の筆跡を真似て『2四銀』と書くだ
けでよかった。
応酬はついに100手を超え、勝負が見えてきた。
「どちらが優勢ですか」
俺が問うと師匠は、複雑な表情でぽつりと言った。
「あと17手で詰む」
こちらの勝ちなのだそうだ。
2年半前から詰みが見えたのだが、それでも相手は
最善手を指してくる。
華を持たせてやろうかとも考えたが、向こうが詰みに
気づいてないはずはない。
それでも投了せずに続けているのは、この遊びが途中
で投げ出していいような遊びではない、という証しの
ような気がして、胸がつまる思いがしたという。
「これがその棋譜」
と、師匠が将棋盤に初手から示してくれた。
2六歩、3四歩、7六歩・・・
矢倉に棒銀という古くさい戦法で始まった将棋は、
1手1手のあいだに長い時の流れを確かに感じさせた。
俺も将棋指しの端くれだ。
今でははっきり悪いとされ、指されなくなった手が
迷いなく指され、十数手後にそれをカバーするような
新しい手が指される。戦後、進歩を遂げた将棋の歴史
を見ているような気がした。
7四歩突き、同銀、6七馬・・・
局面は終盤へと移り、勝負は白熱して行った。
「ここで僕に代わり、2四銀とする」
師匠はそこで一瞬手を止め、また同馬とした。
次の桂跳ねで、細く長い詰みへの道が見えたという。
難しい局面で俺にはさっぱりわからない。
「次の相手の1手が投了ではなく、これ以上無いほど
最善で、そして助からない1手だったとき、僕は相手
のことを知りたいと思った」
祖父と半世紀にわたって、たった1局の将棋を指して
きた友だちとは、どんな人だろう。
思いもかけない師匠の話に俺は引き込まれていた。
不謹慎な怪談と、傍若無人な行動こそ師匠の人となり
だったからだ。
経験上、その話にはたいてい嫌なオチが待っているこ
とも忘れて・・・
「住所も名前も分かっているし、調べるのは簡単だった」
俺が想像していたのは、80歳を過ぎた老人が古い家
で旧友からの手紙を心待ちにしている図だった。
ところが、師匠は言うのである。
「もう死んでいた」
ちょっと衝撃を受けて、そしてすぐに胸に来るものが
あった。
師匠が、相手のことを思って祖父の死を隠したように、
相手側もまた師匠の祖父のことを思って死を隠したのだ。
いわば優しい亡霊同士が将棋を続けていたのだった。
しかし師匠は首を振るのである。
「ちょっと違う」
少し、ドキドキした。
「死んだのは1945年2月。戦場で負った傷が悪化し、
日本に帰る船上で亡くなったそうだ」
びくっとする。
俄然グロテスクな話になって行きそうで。
では、師匠の祖父と手紙将棋をしていたのは一体何だ?
『僕は亡霊と指したことがある』という師匠の一言が頭
を回る。
師匠は青くなった俺を見て笑い、心配するなと言った。
「その後、向こうの家と連絡をとった」
こちらのすべてを明らかにしたそうだ。すると向こうの
家族から長い書簡がとどいたという。
その内容は以下のようなものだった。
祖父の戦友は、船上で死ぬ間際に家族に宛てた手紙を残
した。その中にこんな下りがあった。
『私はもう死ぬが、それと知らずに私へ手紙を書いてく
る人間がいるだろう。その中に将棋の手が書かれた間抜
けな手紙があったなら、どうか私の死を知らせないでや
ってほしい。そして出来得れば、私の名前で応答をして
ほしい。私と将棋をするのをなにより楽しみにしている、
大バカで気持ちのいいやつなのだ』
師匠は語りながら、盤面をすすめた。
4一角
3二香
同銀成らず
同金
その同金を角が取って成ったとき、涙が出た。
師匠に泣かされたことは何度もあるが、こういうのは初
めてだった。
「あと17手、年寄りどもの供養のつもりで指すことに
してる」
師匠は指を駒から離して、ここまで、と言った。
(toroneiから)
— 佐伯、松原編『実践としての統計学』p.10
(出典: nozma-books、atm09tdから)
— Twitter / 清水ミチコ (via deli-hell-me)
(motomocomoから)
これは結構年行っているアメリカ人から聞いた話なんだけど、
昔のアメリカって今の日本と同じで「お客様は神様」「良サービスで競え」が
当たり前だったみたいなんだって。
それこそ1950年代・1960年代、アメリカの経済が好調で、クルマも芸術品並のクォリティー、
電化製品も全部まだアメリカで生産されていた時代。
ほとんどの日本人がアメリカに来てない時代だ。だから多くの日本人が知らなくても当然かもな。
でも1970年代・1980年代になると日本から安くて質のいいものが大量に入ってくると
アメリカ製品は売れなくなったんだ。それこそ今の日本が
いくらクォリティー高くても安さには勝てない。だからどんどんコスト削減しなくてはならない。
あのムダ減らせ、これを減らせ、アメリカ人雇わなくても
しまいには顧客サービスにもしわ寄せがきたんよ。安く売りたいけどサービスは切り詰めたくない、
それを亡くすと他の会社に取られちゃう・・・。
でもしまいにはそれも破綻。サービスなんかクソっ食らえ、
客にペコペコしなければならん?どうせ客はアメリカ製品なんか買わない、
次々とそんな流れになっていき、
ならないと気づき始める。あの会社サービスやめた、うちらも、うちらも。
最終的にどこもサービスやめた。
どこいってもサービスないんだからどこでも一緒だよ。
— 日本で5年働いて、アメリカで5年働いた。質問ある? 働くモノニュース : 人生VIP職人ブログwww (via k2i)
(atm09tdから)
